
歴史的には、例幣使が形式条件を具備した正保年間(1647年)から10年後の明暦3年(1657年)「宿継伝馬」を命ぜられた梁田宿は、由緒ある地域である。そのころより、例幣使街道の宿駅として栄え、たくさんの人々の往来をみた。
また、慶応4年(明治元年)の3月9日には、梁田戦争の戦場となり、その遺跡は今もなお、地域の各所に見ることができる。
地理的には、北に渡良瀬川・南に国道50号線を境とした、足利市の南東縁部に位置している。以前は全域が平地(田畑)の純農村地域であったが、近年工業団地や問屋団地ができ、合わせて産業道路や国道50号線の開通により、暫時市街化の傾向が見られるようになった。特に、福富町二(学区西部)では、高層団地や新興住宅の建設が相次ぎ、人口の増加を見せている。
学区は下渋垂町・梁田町・福富町の3町内で構成されているが、生活域は旧大字単位が存続した下渋垂一丁目(雷電)・下渋垂二丁目(本郷)・福富町一(小生川)・福富町二(塩島)・福富町三(神明)・福富町三(南猿田)の7町内の活動である。 高層団地や新興住宅地への人口移入が始まるとともに、兼業農家主体であった梁田地区でも、両親共働きの家庭が増加している。
教育に対する関心は高く、学校教育への協力や学校行事(授業参観・奉仕活動)への出席率は良い。また、地域全般的にみても学校教育への関心が高く、自治会や児童民生委員・老人会など、種々の面にわたり協力を得ることができる。 |